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縄文時代には岡津辺りまで海が入り込んでおり、子易川には今も貝の化石がみられる、と当時の海岸線想定図を示す。緑園6丁目北側は武蔵国と相模国の境。天文5(1534)年に三島神社が創建され、幕府の諸制度整備に手腕を振ったと言われる代官彦坂小刑部元正が境内に社殿を造営。岡津の娘が徳川家康の側室「お万の方」となり、家康の死後、拝領した仏像安置のため、清源寺(戸塚)を開基。宝永の噴火灰を集めて作った富士塚が向導寺境内にある。永明寺別院前は大山詣の行者で賑わった時代も。まず江戸時代までの、この周辺に関する話題を次々に解説、自分たちの住む地域周辺に関心のある参加者たちは、皆真剣に耳を傾けていた。
そして、明治時代に入る。明治6年、学制により村ごとに学校を設置。同16年に岡津・阿久和・上矢部・名瀬・秋葉の5村の連合役場を向導寺に設置、同22年に5村を合併、村の中を阿久和川が流れることからのようで、名称は中川村に。同23年役場を向導寺から現在の新橋に移転。周辺地域の出来事を詳しく解説、当時の時代背景から阿久和と岡津の気質の違いについての話に移る。 合併以前の阿久和村は、近代産業の製糸工場が操業、養蚕が盛んで現金収入も多い。製糸場への人の出入りも多く、賑わっており「江戸阿久和」とも言われた。中丸家の門は明治18年建築、関東大震災でも健在、横浜市の歴史的建造物に指定されている。中村家の当主は、代々村長を歴任、養蚕・製糸・百合根などの産業で、激動の時代を地域のリーダーとして地域の発展に寄与した。またキリスト教信者となり、その墓は同家墓地に現在も残っている。 欧米への輸出用に、昭和初期まで百合根栽培が盛んで、栽培していた横山家などは「百合根大尽」と言われていたほど。以上のように、阿久和村は産業が盛んで経済的にも恵まれていた。 一方、岡津村では。明治初年に掛け西林寺境内に寺小屋があった。岡津橋脇にあった地蔵堂を「つっ転ばし」、岡津小学校を立てた。地蔵堂は向導寺に移設、「堂の前橋」と名付けた。三ツ境、鳥が丘、秋葉から7〜8kmの道を通って学校に。郵便ポストも中川村全体で5か所。中川村創立後も、阿久和・岡津・上矢部にはそれぞれ小学校があったが、学制により合併することとなった。各地区の意見が整わず。結局、三島神社参道の西側が岡津、東側が秋葉・名瀬・上矢部。阿久和は4年生まで分教場で、ということとなり、校庭の中を参道が通るという現在の形となった。岡津は寺小屋〜学校の地域で、阿久和の産業という面から、気質的にも大きな違いがあったと思われる。 県道は岡津から観音寺までは大正15年に開通。バスは昭和3年。大正11年に電灯がともった。電信柱は集落の人たちが立てた(参加者の名には、私も立てたことがある、と言う人もいた)。電球が切れると交換所へ取換えに。 関東大震災時には現新橋にあった役場はぺちゃんこに。その後岡津に移転。この大震災では、御霊神社〜踊場では90%以上の家屋が倒壊した、とのこと。これら一つ一つの話から、当時の生活がしのばれる講話であった。 |